【多田李衣菜】
とろけるような夕焼け。年内最後のレッスンの帰り道。
多田李衣菜は、初雪に頬を染めた。
本当にこごえるほど冷たくて、彼女は隣を歩く親友に肩を寄せる。
「今日のだりーは甘えん坊だな」
木村夏樹はそう言って、李衣菜の左手をにぎってくれた。
ハードな演奏の影響で、夏樹の指はひび割れて硬くなっていた。
本人はアイドルらしくないと笑っていたが、李衣菜はその指が好きだ。
元スレ
木村夏樹「OH MY LITTLE GIRL」
http://wktk.open2ch.net/test/read.cgi/aimasu/1501906727/
(ロックなアイドルの証だもんね…)
李衣菜は自分のぷにぷにとした指で、夏樹の手をにぎり返した。
アイドルのアイデンティティに悩む時期はもう過去のことだけれど、
なんとなく引け目がある。
「甘えたくもなるよ」
李衣菜はカップルでにぎわう街を見渡して、呟いた。
アイドルになって友達は増えたけれども、気になる異性はいないし、
いたとしても恋人にはなれない。
ワガママなのは彼女自身、理解している。
だからめいっぱい、夏樹に甘える。
「あーあ、なつきちが男の子だったらなあー」
李衣菜はネコのように親友の腕にしなだれかかった。
「女じゃダメか?」
夏樹がからかうように、顎をしゃくった。
その一挙一動が様になっている。
けれども李衣菜の胸は燃え上がることはなくて、
ただ、澄み切った温かみが広がっていく。
どこまでいっても彼女にとっての夏樹は、憧れの親友。
「私はとっくの昔に、なつきちに夢中だよ?」
からかいに対する意趣返しを込めて、李衣菜は微笑みかける。
夏樹も微笑み返した。
(恋人じゃなくても、心はかよいあうんだ)
李衣菜は、美城の舞踏会____所属アイドル全員が参加した
ビッグライブのことを思い出した。
シンデレラプロジェクトのみんな、ユニットパートナーの前川みく。
レッスン・リハーサルは駆け出しの頃よりも苦しかった。
しかし、それを共にこなした仲間達は、今も強い絆で結ばれている。
その仲間達から“にわか”ロックアイドルとして、時々からかわれるのは癪だけれども…。
李衣菜は夏樹から視線を離して、街並を眺めた。
ちょうど視線の先に、濃密なくちづけをしているカップルがいて、
李衣菜は再び頬を染めた。
(まっ、まったく近頃のわかいもんは…)
目をそらしても、また別の場所で他のカップルが唇を重ねている。
東京の街は桃色一色だった。
「……私達もキス、しよう」
李衣菜はやるせない気持ちになって、夏樹に迫った。
「おい、だりー、ちょっと」
親友が珍しく慌てているのがおもしろくて、李衣菜はくちびるをとがらせた。
「ヤバイって! 街のみんなが! マスコミが!!」
「そんなのロックじゃないよっ!!」
結局李衣菜は強引に、親友の頬にキスをした。
【木村夏樹】
木村夏樹が住んでいるアパートは、質素だった。
1Kの部屋。
ミュージシャンのポスターが壁一面に貼ってあるわけでもなく、
レコードやCDが床に山積みになっているわけでもない。
ただ、ベットの脇にアコースティック・ギターとエレキ・ギターが1つずつ。
それから、テレビの前に写真立てがあって、
そこには夏樹と李衣菜が2人で写っている。
今の季節にはこたつが出してあって、それでもう手狭である。
夕食は外で済ませてきた。
満腹になった李衣菜は、
こたつに突っ伏して、眠りこけている。
そのあらわになった白いうなじに、夏樹は視線を注いでいた。
「だりー」
名前を読んでみる。
返事はない。完全に眠っているようだ。
夏樹はのそりとそばに寄った。
首筋に息がかかるほどちかくに。
「うーん…」
李衣菜が声を出して、夏樹はびくりと後ずさった。
しかし、頭の位置を変えただけで、起きてはいないようだった。
ちょうど、李衣菜の横顔が見えるようになった。
ふにふにと艶めいて、やわらかそうなくちびるから、
赤く染まったほっぺたにかけて、よだれがたれていた。
夏樹は身をよじって衝動にもだえた。
(ばっかやろー…思春期の男子中学生じゃあるまいに)
この頃、李衣菜が可愛くてしようがない。
出会った頃は妹ができたような気持ちだったが、
今の夏樹の気持ちはかき乱されている。
さきほど、本当は手を繋ぐのも一苦労だった。
なんとか格好つけて、勇気を振り絞って、李衣菜の指を絡めとった。
その時の感触を思い出すと、びりびりと硬くなった自分の指先に電流が走る。
キスをされた頬はとけてしまったのではないか。
衝撃のあまり、感覚がいまだおぼつかない。
「だりー…」
夏樹は震える腕で、李衣菜を背後から抱きしめた。
デビューライブ以上の緊張感が、彼女を襲っている。
李衣菜の身体はあたたかくて、小さくて、どこまでもやわらかかった。
「他のアイドルといてんじゃねえよ…くそっ」
その言葉が出た時、夏樹は自分が、
これ以上ないくらい醜い人間のように思われた。
けれども、もう、止められない。
「アタシの女になってくれよ…
ずうっと、だりーと一緒にいたいんだよ」
ひゅうひゅうと夏樹の息で、李衣菜の後ろ髪がはねた。
「アタシがそばにいれば、誰にもだりーを馬鹿にさせたりなんかしない…」
李衣菜が笑い者にされている。
夏樹の目には、そう見える。
自分が誰よりも近くにいたいから、
李衣菜に近く人間が、すべて敵のように感じてしまう。
そんな自分を、また一方で冷たく観察する自分がいる。
幼い頃の、ロックスターに憧れていた夏樹。
アイドルになると決めたときも、この少女が18歳の夏樹を見つめていた。
自分の道は、かつて描いたものから大きく逸れている。
けれども後悔はしていない。
夏樹は、李衣菜の髪に顔をうずめた。
「こんなにも、愛してる」
その呟きに返されたのは、安らかな寝息のみだった。
おしまい