『お、今日は早いじゃん』
話しかけられて後ろを振り向く。
見覚えのある通学路。声の主に言われて校舎壁に設置されている時計を見ると、短針が8時、長針が10分を指すところだった。
特別早い登校時間というわけでも無い。そこから普段の自分が遅刻か、遅刻するまではいかないがソレすれすれの予備軍かという事が推し測れた。
――…1時間前。
目覚める。意識の覚醒により無意識に現状の把握をはかる。
見知った間取り、見知った家具……私はそれらの要素からここが我が家の自分の部屋である事を認識出来た。
だんだんと冴えてくる頭で次に感じたのは額にかかる違和感。おそらく前髪……であろうか、顎先まで感触があり、更にその下の掛布団にまで垂れ下がっている。色は金。長髪だ。
自分はソレを知らない。
顔の確認をしようと見知った学習机に置いてある見知った鏡の前まで、数秒とかからず到達。
一呼吸置き、加速度的に速くなる心臓の鼓動を少しでも鈍らせ――
――自分は、おそらく私であろう"知らない"少女の姿を視認した。
――…
『お、今日は早いじゃん』
振り返ると、目の前には一人の少女。
起床してからここまで来る時間でなにかを思い出せるかと思ったが……。
元スレ
綾乃「歳納京子が記憶喪失!?」
http://hibari.2ch.net/test/read.cgi/news4vip/1315729384/
綾乃「歳納京子が記憶喪失!?」
http://hibari.2ch.net/test/read.cgi/news4vip/1315752586/
『どうした? 顔色悪いぞ』
ズキン、と頭へ光の斜線が入るように痛みが刺さる。
私は、ある理由から記憶を無くしながらも学校に出向いた。
目の前にはシャギーが入ったような、黒髪の……少女だろう。制服の下がスカートだ。
性別を一瞬迷ったのは彼女が中性的で……だがその整った鼻梁のおかげで美少女という表現が当てはまる、端正な顔つきであった。
「どう……したの? 本当に調子悪そうだぞ」
一歩、二歩と歩みよってくる少女。
意識が身体に戻ってきた時にはもう半歩前にまで近づいていた。
自分――"私"は、調子の良さをアピールしつつ、探りを入れてみる事にした。
「お、おはよう。大丈夫、少しボーっとしていただけだから」
頬を指で掻きつつ苦笑する。我ながら自然に振る舞えたと思う。
「そうか? なんかおかしいな……」
どうやら眼前の彼女には演技が通用仕切れないらしい。といっても演技する"自分"がわからないのだから不自然さが出るのも当然の事だろう。
それに、私へ向ける仕草や口調からして、彼女は朝に挨拶を交わし、調子を気づかった上で……というか距離感が近い。間違いなく"友達"なのであろうことは容易く予想がついた。
ここで、ひとつ賭けに出てみる。
「ええと……私のフルネームってわかる?」
「はあ? ……歳納京子だろ。どうしたんだ? いきなり」
"歳納京子" そう、それは私の名前だ。朝起きて姿を鏡で確認した後、真っ先にしたのが名前の確認。
普通なら記憶を無くしている時点であわてふためくのだろうが、不思議とそういう感情は沸き上がらなかった。
「ごめんごめん、ええと……あなたのフルネームってなんだったかなあ、ってど忘れして」
またも頬を指で掻く仕草をとる。
彼女は訝しげな目を送りながらもため息を一つし、
「船見、船見結衣だ。思い出したか? 寝ぼけ京子」
コツン、と額をグーで小突かれる。
"寝ぼけ京子"と言われたが、私の頭は冷静に回っており、話している間も周りの生徒や風景、時計の確認などの現状を把握する事は忘れていなかった。現状の確認は、現在の自分というスポンジに情報を吸い込ませるために必要不可欠な行為だったためだ。
時計の確認、と言ったが長針の角度から見るに時刻は遅刻を指す寸前。
「そ、そうだ船見結衣だった。結衣……船見さん? とりあえず遅刻しちゃうから教室へ急ご?」
「あっ、ちょっと! 京子っ!」
掛けられた声を無視して生徒玄関へ向かう。
そういえば大事な事を忘れていた。
私のクラスな何組だ?
仕方なく、船見結衣さんを待つことにした。
ほどなくして来た彼女に謝り、下駄箱から教室への歩みまで……彼女の一挙一投足に注目し、模倣する。
教室に着くと同時、HR開始数分前を告げる鐘の音が鳴り響いた。どうやらそこまで危険な時間ではなかったらしい。
それでも教室の席は既にほとんど埋まっており、教師が来てから座るなどという生徒もいなかった。担任の指導が行き届いているのか、もしくは学級委員長がその手に厳しい生徒なのか。
『遅いわよ! としのーきょーこっ!』
教室の内情を把握していた矢先に名前を投げかけられる。
一人の女子が起立し、こちらへ人差し指を指しながら声を張り上げてきた。
「はは……ごめんね、危なかったけど遅刻じゃないし……」
今度のは歯切れの悪い演技だった。周囲の視線が自分に集中した事も相まり、無難な言葉しかチョイス出来ず、奥歯を軽く噛み締める。
「まったく……綾乃は京子の事が遅刻するか心配だったんだな」
隣で船見結衣がそう溢す。なるほど、私を呼んだ彼女……赤髪の女生徒は"綾乃"というらしい。素直に良い名前だとも思った。
さて、私の事をフルネームで呼ぶ彼女は仲の良い友達なのであろうか。他のクラスメイトにもそう呼ぶのかもしれないが。
彩乃が私と結衣がいるドアに向かって歩を進める。この時には他の生徒達の関心は別のところへ移っていた。彩乃が他生徒へ声を荒げる光景は日常茶飯事なのかもしれない。
「歳納京子! ……あっ、船見さん。おはよう」
彩乃は結衣に対してはごく普通に笑顔で挨拶をする。
ここまでで、もしや彩乃は私の事が特別気に入っていない可能性が出てきた。結衣の方も「おはよう、彩乃」と言って笑顔をつくっている。いや、この場合"つくっている"のは私一人だけか。
『まーまー、彩乃ちゃんも歳納さんと朝からそうイチャつかんと』
と、彩乃の後ろから遅れてやってきた――第一印象は特徴としてはわかりやすい眼鏡ではなく、"鼻血"であった。
「あっ、鼻血が出てるっ!」
私は咄嗟に鞄からポケットティッシュを取り出し、鼻血……眼鏡の少女に差し出す。
「ふぇ……? ああ、おおきになぁ歳納さん」
礼を言い、ティッシュを赤く染めていく彼女を見て、私は嘘を貫き通せるかが一気に不安になった。
鼻血の少女は外していた眼鏡を掛け直す。
「ち、千歳っ別にイチャついてなんかいないわよ!」
そうだ。彩乃の言っていることは事実。顔を真っ赤にしてまで怒るほどの事では無いと思うが、彼女にとっては重要な事なのだろう。軽く呂律が回っていないのも愛嬌に思えた。
その後、教室に入ってきた担任に促され、私たちはそれぞれの席に着いた。
千歳と呼ばれた関西訛りの女生徒の鼻血に対して担任がなにも言わない事からも、千歳の鼻血も日常茶飯事なのだろう。我がクラスメイトながからここまで会った少しの面子相手でも押し負けてしまいそうな、そんなインパクトがある生徒ばかりだ。
授業内容は、スラスラと耳に入ってくる。自分でいうのも難だが、私は頭の出来が良いのかもしれない。
昼休みに結衣から、午前中に一睡もしなかった事を誉められた。なるほど、私はそういう人間だったのか。
同時に、この時点で私は歳納京子を少しずつ理解していた。多少のお調子者で、多少の不真面目ものらしい。多少の、というのは私の歳納京子自身に対しての希望的観測により付け加えさせてもらった。
午後の授業も滞りなく終了、後は帰宅するのみとなった。
勉強道具を鞄に収めていると、結衣が腰に手を当てて……なんだか私を待っている様子だった。
「……あー、ごめんごめん。すぐ帰る用意するから、先に玄関で待ってて」
鞄に物を詰めながら、結衣の方を見ずにそう告げる私に向かって足音が近づいてきた。
「……部室は離れにあるから玄関で待っていてもいいけど、今日は寄らずに帰るのか?」
瞬時に失言を悟った。でもまだ"失敗"ではない。私は鞄を肩に担ぎ、
「部活? あー、今日はなんの用意もしてきてないんだ」
後頭部を掻いて誤魔化す。――そうか、部活動か。完全に失念していた。
たしかに今日あった体育の授業でも身体が軽く、身のこなしも中々のものだった。歳納京子が部活動に入っていてもなんら不思議な事でもなかった。
しかし、それでも結衣が私へ向ける奇異な視線は変わらず、
「用意? あの変な箱でも忘れたのか?」
箱? なにを言っているんだこの少女は。
……思案しても箱を使う部活は頭に浮かばなかった。
「娯楽部だよ、娯楽部。朝から変だぞ? いつも変だけどな」
冗談混じりに笑う結衣。最後のは冗談だと思いたいがそれはまあ、置いておくとする。
娯楽部? ……ゲームクラブの事か?いや、違うだろう。半日、船見結衣という少女を見てきたが、トランプやTVゲームに興じるような人間には見えなかった。
その大人びた、容姿に釣り合う人間性を持つ、マセてはいないしスレてもいない。健全で理知的な子。それが私が現時点で下した船見結衣への評価である。
その結衣が娯楽部……カルタや百人一首でもやるのならまだ似合いもするが。
「用事があるのなら仕方ないけど」
「……いや、大丈夫っ少しボケてみただけだから!」
「ったく、わかりずらいボケはやめてくれよ。ただでさえ普段からのツッコミで肩が凝るんだ」
コキコキと肩を鳴らす仕草をする結衣。
虎穴に入らずんば虎児を得ず、だ。私は私のために娯楽部へと向かう事に決めた。それが歳納京子を知る絶好のチャンスでもあると予感したからだ。
――…
なるほど、娯楽部とは茶道部のことだったらしい。
見覚えのある古風な日本家屋めいた建物。この建造物には馴染み深い印象を感じた、確かに私はここへ通いつめていたのだろう。
結衣の後ろをついて玄関を上がり、部室と呼ぶ茶室の戸を開いた。
『あっ、結衣ちゃんに京子ちゃん。今日会うのは初めてだねえ』
『あっ、結衣先輩~っ』
部室には先客が二人居た。
一人は、髪の毛を熊の耳のように2つに丸めたお団子頭の少女……髪の色は赤。
いま思い出すと綾乃の髪色は赤ではなく、紫がかっていたかもしれない。そう思わせるほどの綺麗な赤色に……その色が持つカラーイメージに反して穏やかで優しそうな性格が一目で伺い知れる柔らかさを持っていた。
もう一人はリアルタイムで結衣の胸へと飛び込んだこちらもまた髪の毛を左右2つに縛った……赤髪の少女とは違いツインテールというやつの方が正確だろう、髪色はピンク。こちらも綺麗だ。
「ええと……」
同じ部活動の仲間なのだから、名前を知らないのは不自然。今回はここまでの経験則から"待ち"に徹することに決めた。名前など会話を進めていけばおのずと出てくるもの。
「ええと……」と私が言った刹那、ピンク色の少女が身を強張らせる。目にはそこまで強くない牽制の意味を込めた敵意。
「京子先輩……今日はすぐに抱きついてこないんですね」
訝しげにそう漏らす彼女、髪色と同じ薄い唇。それと同じように頬も紅潮しているように見えるが。結衣に抱きついているからだろうか、まさか。私はその考えを脳内でゴミ箱に掃き捨てた。
それに、"いま抱きついてこない"と言ったか。私は多少、この子を弄っていたのかもしれない。もしかすると多少の……そっちの毛もあった可能性もゼロではないだろう。
「そ、そうか……いや、勿論抱きつくぞー!」
若干声が裏返っていたかもしれない。私は足裏で畳の感触を確かめ、にじり足で彼女に近づく。
「う、動かないでねえ」
剣道剣士のようなすり足……いや、相撲取りの方が適切かもしれない。両足を開いて、上げた両の手でワキワキとしながらゆっくりと近づく……
「はあ……はあ……」
「……」
「はあ……っ、はあ……」
「ひっ!?」
獲物を捕らえるためゆっくりと近づいたが、いつものコミュニケーションのはずなのに彼女は結構真面目に怯えている。いつもどんな風に抱きついていたんだ?
「はあ……っ、つーかまえ~った!」
「きゃっ!」
「うがっ!?」
飛びかかったと同時に顎にカウンターを貰った。キレの良い右ストレートに感心しながらも、意識はゆっくりと、突然に暗転した。
歳納京子の様子がおかしい。
それは予感でも予想でもなく、確信だ。
生徒会室での資料整理も終わり、一人、椅子に腰をかけながらも腕を組み、思い馳せる。
「絶対に様子がおかしいわ」
船見さんも、今日は少しボケが多いなんて言っていたけど、常日頃から歳納京子を観察……いや、監視していた自分だからそれがハッキリと言えた。
様子がおかしい、というレベルではない。まるで人が変わったようなのだ。
確かに放課近くにはいつもの歳納京子然とした、お調子者っぷりも見せていたが、そこに至るまでが不自然極まりなかった。
周りの反応を見ている……? いや、周りの反応を見て、そこから自分を探し出しているようだった。
誰かに気をつかっている? いや、一見してそう見えるかもしれないが……歳納京子が気をつけていたのは自分自身だ。自身の言動、行動、反応……一連の全てが素を出さない、否。素を出せないからのあの挙動不審だったのだ。
「でも、どうしてそんな事に……?」
思い出しても胸がチク、と痛む。歳納京子の自分に対する反応、始めに至っては"杉浦さん"と呼ばれた。
少しは近づいたかに思えた二人の距離が、一気に振り出しに戻った気分だった。他人行儀な彼女の反応、困惑したような困ったような表情を思い出す度に胸が苦しくなる。
「なにか悩みがあるなら……少しくらい私に打ち明けてくれたっていいのに……」
素直になれますように。機会がある毎に願ったが、効果はまだ出ないらしい。
――…
目が覚めると、左の頬に柔らかいとても心地の良い感触がした。
「起きたか? まったく、悪ノリなんてするから」
右耳の方向、天井側から結衣の声が聞こえた。低い目線、90度回転した世界……左頬の感触。
それで把握した、私は例の子に顎を殴られ、脳を揺さぶられながら気絶。そして結衣に膝枕をされているのだと、
「ごめんっ、いま起き……痛っ」
「無理するな。まだこうしていて良いから」
「…………ありがとう」
お言葉に甘えさせてもらうことにした。もう少しこの状況を感じていたいとも思ったから、結衣の進言は都合が良かった。
「なあ、京子」
「……んー?」
「おまえ、何かあったんだろ」
「っ!」
驚いた。瞳孔が開くのがわかる、身体中から嫌な汗が出る。視界に結衣の顔が入らないせいで、表情が読み取れない。私は、今すぐに逃げ出したい感情に駆られる。
「そう慌てるな。言いたくないなら言わなくていい」
結衣が、優しく語り掛けてくる。
「でも、なんでも一人で抱え込まないようにな」
「困った事があったら……私に相談してくれると、嬉しい」
何故か、涙が出そうになった。
今日初めて会った彼女だが、実際はそうでなく。やはり、私と結衣には共通の経験があり、共通の思い出がある。それを再認識出来て嬉しかったのだ。
「っ……結衣……っり、がとう……」
すました声音で取り繕うとしたが、一つだけわかった事がある。どうやら私は……演技下手らしい。
――…
気を利かせていたのか、どこかへ行っていた二人……あかりとちなつちゃんが戻ってきて、今日の部活動は終わりという運びとなった。
茶室から覗ける夕焼けから、不思議な幸福感を感じた。
なんでもない理由だけど、記憶喪失を隠している理由を結衣に打ち明けようかと思えた。
――…
帰宅による安心感、というのは記憶が無い自分にも与えられるみたいだ。
部屋に戻り、机の上に鞄を置く。そこで初めて気づいたが壁にかかっているコルクボードに目がいった。――友達との写真を貼っている辺り、可愛いところもあるんじゃないか。
歳納京子という女は、ガサツで、無責任で、傍若無人。それが今日一日を過ごして私が下した、彼女への評価。
コルクボードの写真には勿論、結衣と映ったものが多かったが、ちなつちゃんとの写真も同じくらい貼られていた。中学からだけの写真を見たら、圧倒的にちなつちゃんが多い。
やっぱり、好きだったのかもしれないな。それが友達としてなのかは今になってはわからないが、
「……よしっ」
パチン、と両手で頬を叩く。喝を入れたわけではない。不安を飛ばしたのだ。
シルバーラックからあるものを取り出す。
「あー、あー、私です。はじめまして、〇〇――」
――…
「……ふう」
存外、長く話してしまったらしい。時計を見ると夜の8時近かった。
「あっ」
「――…よし、これでよしっ」
さあ、初めての夕飯に初めてのお風呂だっ!
私は椅子から立ち上がり、大きくノビをした。
結論、デザートのラムレーズンアイスは至高。他にもバニラやらチョコやら置いてあったけど、歳納京子はどの味が好きなのだろうか。
個人的に濡れた髪は自然乾燥でも問題無いのだが、過去に誰かに言われたのか、なぜかドライヤーを使って乾かさないといけない気になる。
その時、ピンポーン。と家のチャイムが鳴らされる音がした。おそらく家族の誰かが出るだろう。風呂上がりだし、下着一枚ではさすがに出れない。
窓ガラス越しに来客の姿を確認する。
橙色の街灯に照らされたせいではないだろう、夜の闇に溶けるには明るい、赤紫色のポニーテールがそそっかしく揺れていた。
来客は、玄関ドア横に取り付けてあるインターホンに向かって顔を近づけていた。
『と、歳納京子さんはいらっしゃいますかっ!!』
目を閉じ、真っ赤な顔をしてマイクに向かって声を張り上げるのは――綾乃。まさか朝の事で家まで押し掛けてきたかとも思ったが、彼女は聡明だそれはない。朝の事も怒っていたわけではない、スキンシップのようなものらしい。
私は窓を開けて、顔を出して手を振る。
「おーいっ、あやのー」
「と、としのーきょーこっ!?」
綾乃が玄関から離れ、私の部屋の前まで回り込む。格好は勿論、制服ではなく、センスのある洒落たいでたちだ。
「綾乃の声が大きいからさ、思わず窓から話しかけちゃったよ」
「ぐぬぬ……恥ずかしいところを見られた……」
なにが恥ずかしいのだろう。同性ながら可愛い子だなと思う。
生い茂る木々や塀が邪魔をして、綾乃側からはこちらが見えずらいはずだ。私は少し前のめりになって身を乗り出す。
「よっと」
「きょ、今日は話をしに……って! あなた下着じゃないっ!?」
ポッポー、と機関車の如く顔からボッと湯気を吹き出す綾乃。怒ったり真っ赤になったり忙しい子だ。あまり近所に聞こえるような声で下着下着と言われたくないので、パジャマに着替えてからもう一度姿を見せる。
「で、どうしたのー?」
訪ねてきた理由は本当に思い当たらない。純粋な疑問だ。
「じ、実はそれなんだけど……」
「うん?」
「その、今日の歳納京子は様子がおかしいなと思って…………ごにょ」
「…………うん」
綾乃は両手の人差し指をつんつんと付き合わせ、俯きながら細々と一生懸命言葉を紡いでくれる。
「その、だから……私が相談に乗ってあげるって言ってるのっ!」
「ありがとう、綾乃」
「ふぇっ?」
歳納京子は幸せ者だな。言わずとも察し、心配してくれる級友が複数人いるなんて。
少し、自分に妬けた。
「綾乃ーありがとう~」
腕を、機嫌の良い犬の尻尾のように振りたくる。これは感謝の気持ち。これくらい嬉しかった。そう伝えたくて。
「……相談なんて必要なさそうね」
腕を振る私を見てなにかを悟ったのか、少し嬉しそうな顔で小さく手を振る綾乃。それに合わせて頭の尻尾も可愛らしく揺れている。
「綾乃ー!」
「なに?」
『私が男だったら結婚してるところだぞーっ!』
「なっ、ななな、なんですってー!?」
プシュー、と熱でヤられたパソコンのようにモクモクと湯気を出している。さすがに少し心配になるが、下を向き、両手で顔を隠す綾乃から次第に「え……今のって」「プロポ……えええっ」と聞こえてくるがなんのこっちゃ。とりあえず心配は無用らしい。
綾乃が顔を振り上げ、朝の調子で私に人差し指を突き指す。
「とにかくっ! 明日もへこたれないで登校すること! 破ったら罰金バッキンガムなんだからっ!」
そう捨て台詞を残し、夜の住宅街を激走して姿を消していってしまった。
「わかったよ、また明日、な。綾乃」
歳納京子は……ガサツで、無責任で、傍若無人で――良い友達をたくさんもっている。
――…
翌朝、起きた私は……昨日の私だった。
その翌日も、記憶を無くして4日たっても、5日たっても、私は歳納京子に戻れず。私のままだった。
6日目には休みを利用して娯楽部のみんなと生徒会の面々で小旅行もした。旅館に泊まりがけで、真顔の綾乃にある告白をされたり……とにかく、7日目の今日。私は一生分楽しんだ気がした。
明日もいい日になるだろう、私は明日もこの世界にいたいと思えた。……けど、明日にもこの世界から消えてなくなっても、私は歳納京子を卒業してしまっても幸せだったと思えるだろう。
それに、私は確信していた。だからもう一度だけ最後に――…
――…
「ぶはぁっ!?」
眠りから目が醒める。額には汗が流れ、視界には髪が一房も二房も縦に流れていた。こういう時は水分補給をするといいって知っている。人間、経験則というのは大事なものだ。
よしっ、今日も一日楽しみますかっ!
――…
月曜、朝――通学路を歩く。
私にしては早起きだ。校舎に設置されている時計を見ると短針は8時、長針が2の数字をざっくりと突き刺していた。痛そうだ、だがその痛みもあと数十秒で隣に向かう。それまでの我慢だぞ。
『京子、おはよう』
肩に手を置かれる。その感触で手の主がわかる辺りは幼なじみなのだろう。私は声の主に向かって挨拶をする。
「はよ~っす結衣! 元気にしていたか~」
「なにを言っているんだよ、昨日も一緒だったろう?」
ああ、そうか。そういえばそうだった。
「あのさあ、結衣……実はさ」
「うん?」
親友の耳に唇を近づかせ、そっと呟く。
――…
教室のドアを開けると、綾乃が直立不動、"気をつけ"の状態でピン、と立っていた。顔は真っ赤だ。罰金がとれそうなくらい、
「はよー綾乃」
「と、としのーきょーこっ、き……昨日のへ、返事を……っ」
耳まで真っ赤にして、一生懸命に言葉を紡ぐ姿は、やはり女の私から見ても可愛らしく思える。
そこで、私の隣にいた結衣が綾乃に向かって一歩、前に出る。
「ああ、綾乃。実はコイツさ……」
「ふぇ?」
間の抜けた顔も、可愛らしい。
「歳納京子が記憶喪失!?」
綾乃が顔を真っ赤にしたままそう言い放つ。
それに、結衣が言った事は嘘では無い。私はある理由で一週間、記憶喪失状態だった。
綾乃と目が合う。口をパクパクさせて、瞳孔が開いて驚嘆を隠せていない……隠すつもりもないと思うが。
「と、歳納京子……あなた、昨日の事は…………ううん」
「それでっ、大丈夫なの!? 身体の具合は!? 今は平気なの!?」
綾乃自身も聞きたい事があったのだろう。でもそれを辛抱して私の体調を気遣ってくれる。この子はそういう子なのだ。正直、自分の浅慮な行動に恥ずかしさを通り越して怒りすら感じる。
「あのっ、病院とか……私が旅行に誘ったから?」
「綾乃」
「でも……」
「大丈夫だから」
「…………ひっ、く」
「だから、泣くな。な?」
事の顛末を話すために教室から移動する。その間に綾乃には、記憶喪失だったのは先週から昨日にかけての一週間。綾乃には一切の非は無い。それだけ、後で説明することだけど、とりあえずいま教えておかないと泣き止んでくれそうになかったから……。
目的地は、生徒会室。
――…
生徒会室には娯楽部のメンツと綾乃に千歳の6人。ひまっちゃんや櫻子には後で教えるとの旨を伝え、迷惑をかくないように授業に出席してもらうようお願いした。
一呼吸置いて、皆の視線が集まるのを確認し、口を開く。
「急な話で本当にごめんっ!」
「でも京子ちゃん……どうして記憶喪失になんてなったの?」
真っ先にあかりが質問をしてくる。人を慮る事の出来る優しい子だが、こういう時にでも物怖じせずにいてくれる強い子。
「実はさ、西垣先生の発明で……」
「……そんなところだと思ったわ、というか冷静になって考えたらそれしか無いじゃない」
目と鼻を薄く紅潮させた綾乃が言い捨てる。
結衣が手を肩の位置まで上げ、軽いオーバーアクションで皆の視線を集めた。
「先生の発明っていうのが原因なんだな? 効果は事前に知らされていたのか?」
的確に要所を突いてくる。思わず"良い質問ですねえ~"と言いたくなったが、言ったらさすがに殴られるどころじゃ済まなそうなので止めておいた。
「効果は初めに教えられた。被験者は一週間、人間関係に対する記憶を無くした状態におちる。その間の人格は、病院や家族に助けを求めるわけでもなく、自力で活動する……って」
「そんなどうなるかもわからない危険な薬を……」
結衣が、珍しく本気で怒っているようだった。腕を組み、カツカツと立ちながら貧乏揺すりをしている。
「それで、西垣先生はどこに?」
「えっなあ、ウチらが授業を欠席する事の便宜を図るためっちゅうて、職員室に頭を下げに行ってくれとるわあ」
ちなつちゃんの問いに千歳が答える。本当は、放課後に西垣先生の方から皆を集めて説明をする段取りであったが、悪いことをした。
「生徒を実験に使うなんて……信じらんないよ」
「すまん結衣! 私もつい面白そうだからって理由で……私が悪かった」
「3‐7で西垣先生が悪いわね」
綾乃もご立腹だ。西垣先生には後で謝って、皆にも頭を下げる必要がある。それにはなんの不満も無い。
「その……一週間一緒に遊んだもう一人の京子ちゃんは、どうなったの?」
あかりが簡単に核心を突く。けど、私としても次の進行が出来るため、良い渡し船となった。
「それについてはだな……皆にはこれを見てほしい」
ゴトッ、と隠して持ってきておいたのは……ビデオカメラ。
何人かはコレを見て大方の予想がついたのだろう、早く再生しろと言わんばかりの視線が注がれる。
ビデオカメラを机の上に置いて、再生しようとしたが、千歳の提案により、パソコンに映して大きい画面で見ようという運びになった。
キーボードをカタカタと打つ綾乃を横目に、結衣が私の方へ向き直る。
「京子は……観たのか?」
その問いには首を振り、否定を示す。正確には初めの数秒だけ見たのだが、出だしがアレだったので、皆と一緒に見ようと思ったのだ。
「ほら、再生するわよ」
小声で綾乃がそう呟くと、軽くエンターキーを叩く。
――
『あー、あー、私です。はじめまして、歳納京子――それに、久しぶり。みんな』
当然だが、画面には私が映っていた。モニターの中の私は、もう一人の自分の事を歳納京子と呼んだ。みんなに対して"久しぶり"と言ったのはこのビデオを他の皆が見る機会がいつになるか予測出来なかったからだろう。
『私は、たった今決めました』
『本能的に持つ、いつかは元の歳納京子に戻るという感覚。これをそのまま受け入れる事にします』
画面の私は、とても楽しそうに指でVサインを作る。とてもピースなサインとして受けとることが出来なかった。
『……それで、結衣がすごく格好いいんだ』
『なんでも一人で抱え込むな、困った事があったら私に相談しろよ(キリッ……てさ!』
ひゅーひゅーと皆で茶化す。結衣は下を向いて若干、顔に朱を散らしていた。
「京子のやつ……」
自分が怒られている気はしなかった。やはり、この京子は私とは違うもう一人の人間なのだ。
全ての録画時間を見てみると、昼までかかりそうだったが、皆で話した結果。ぶっ続けで見る事が京子への誠意という事で収束した。
『ちなつちゃんには殴られて気を失っちゃうしさ~』
『綾乃はどうして顔を真っ赤にして話すの? なんで?』
などと他愛もない……ちなつちゃんに殴られたくだりは後で問い質すとして。世間話を楽しそうに語る京子に、皆がそれぞれツッコミを入れたり、語りかけたり。まるで画面の京子とリアルタイムで会話をしている気分だった。
ほどなくして京子が録画の終了を告げる。
皆の感慨も一潮なのか、あかりなどは目に涙を溜めている。
『ちょっと緊急速報! ラムレーズンアイスすごい! 超美味しい!』
どっ、と場が沸いた。録画時間を見てみるとまだ先がある。この後も何回か撮ったらしい。なぜか、私もほっとしていた。
『いま綾乃が来てくれてな!』
ブッ、と吹き出したのは綾乃。隣で眼鏡を外して鼻血を出しているのは千歳。
『相談に乗ってくれるってさ、良いやつだよ本当~歳納京子が羨ましいよ』
『思わず結婚したいって言ったよ! なんか湯気出てた! 可愛いいな綾乃は!』
興奮して話す私……画面の中の京子は本当に嬉しそうで、幸せそうだ。
「……こっちこそ、ありがとう」
綾乃も嬉しそうにしてくれている。京子の残した映像は皆の心をこれだけ動かす事の出来るすごいものだ。すごいぞ京子、お前は間違いなくこの世界に存在していて、間違いなく皆の友達だった。
その後も翌日や翌々日、4日目や5目に日記のように京子は度々、映像を残していた。
そうして録画の日付が昨日――7日目に入ったところで京子が告げた。
『今日はおそらく私がこの世界にいれる最後の日です。どうでもいいかもしれませんが、総括を始めます』
旅行から帰ってきた時刻。昨日の今、京子はまだこの世に存在していたのだ。
『その前に、旅行の感想から』
『ひまっちゃんと櫻子の夫婦漫才には最高に楽しませてもらいました! 本当、末永くお幸せに!』
この場に二人がいない事はラッキーなのか。どのみち後で見せる事になるが、映像そっちのけで照れ隠しの喧嘩のゴングが鳴らされるだろう。
ふいに、京子が頭のリボンの位置を鏡で見て修正する。そして真剣な顔つきで、優しく諭すように、
『綾乃。旅館ではありがとう』
『でもあれは練習だよ、本番はこれからだから。ね?』
綾乃の方を見ると、怒るでもなく悲しむわけでもなく、色々な感情がない交ぜになった――戸惑い、だけが視認できる。そんな表情だった。
『私は……嬉しい』
その顔に嘘は無い。
『ファイトだ、綾乃。大丈夫、私が付いてる』
なにかを達観した人間というのは言葉にパワーがあるのだろうか。京子の言葉には文字通り言霊というものが付いてそうなくらい……力があった。
それを見た綾乃が一度私の方を見て、また画面の京子へ向き直り、頷く。京子の言葉は無事に届いたようだ。
その後は、京子がそれぞれ一人一人に一週間の思い出話や礼を告げていく。この時点であかり……ちなつちゃんも涙を堪えている様子だ。
結衣と綾乃はまっすぐに京子を見据え、千歳に至っては涙を拭いているのか鼻血を拭いているのかよくわからないくらいティッシュを使っていた。
『最後に、歳納京子』
名前を呼ばれ、心臓が跳ねる。
『私は今の時点で歳納京子自身に近づいているみたいだ』
『なんとなく、記憶も戻ってきたような……気がするだけだなこれは、うん』
「……そうか」
『幸せものだな、歳納京子は』
「ああ。ありがとう」
『勉強は真面目にな。あと結衣にもあまり迷惑はかけるなよ? あかりには……』
「勉強はともかく、お前が言う通り、皆にはこれからの私を見てもらうよ」
『……そうか』
「え?」
皆がざわつく。いま、私の言葉に反応したのか?
『いまの"……そうか"は適当に言っただけだからな。二回目以降は無言で観るなよ、確実にイタいから』
「なんだよ……驚かすなよ」
自然と笑みが溢れる。そうか、皆が好きだったこの歳納京子はとても面白く、相手を笑顔にさせる事が出来る子なんだ。
『それじゃあこれくらいにして、最後にいくつか言うよ』
『みんな! ありがとうっ!』
1年生二人は涙を堪えきれていない。
『楽しかったよ! ありがとーっ!』
結衣も、綾乃も千歳も……私も、目に涙が浮かんできた。
『みんなが大好き、みんなのおかげでこの世界が好きになれた――』
『――みんなのおかげで、私は自分を好きでいられたっ』
『私がっ"歳納京子"で良かったっ!!』
誰も流れる涙を隠そうとはしない。それは私も同じだ。
皆、表情は嬉しそうに、笑顔だ。……私もそうだ、
「私も……お前が"京子"で良かった」
画面は、京子が腕を嬉しそうに振り続けているところを映し、そして録画時間の終了と共にブラックアウト。
皆、晴れ晴れとした表情で、誰一人として悲哀の涙は浮かべていなかった。
「ありがとう。京子」
私の呟きは――京子の元へ届いたのだろうか。
――…
放課後、再び生徒会室に一同が集まり、西垣先生を質問責めにしていた。
「そうだな……記憶喪失時の記憶について、か」
「やっぱり、忘れているものなんですか?」
ポニーテールを揺らし、綾乃が言う。
「いや、記憶喪失時に記憶した事は全部を全部覚えているわけではないが…」
「……思い出す事は可能だ。歳納自身がいくつかは思い出していてもなんら不思議じゃない」
「え? それって……」
綾乃が、一人で窓際にいた私の方に目線を寄越す。
「歳納京子があの事を思い出す可能性も……?」
「なんの事かは知らんが、既に思い出しているかもしれないな」
「え? ええぇ!?」
ボンッ、と綾乃の顔から湯気が出る。"相変わらず"可愛いやつだ。
『綾乃っ、今日あたり一緒に買い物にでも行かないか?』
「ふぇ? い、いいの? というか歳納京子、あんた記憶を思い出して……?」
「うん?」
京子は消えてなんかいない、映像の中で言っていた通り、段々と京子が私になったのだろう。
「あ~っ! いい天気だなーっ!」
気分は上々、天候も上り坂。明日もいい日と謳って生きよう。
〈了〉